シンプレクサス工房・ギャラリー設立までの歩み

志田 寿人(●)代表とのインタビュー        インタビューアー:中村 織絵(●)学芸員
              ■ Part 1 生命システム部門

1964 東北大学理学部(生物学科)卒業
1969 東北大学大学院博士課程
  単位取得満期退学
  理学博士
1970  東北大学医学部解剖学教室、助手
1978-80, 1983-84 の2回
米国プリンストン大学 発生生物学
    Steinberg研究室・客員研究員を併任
1980山梨医科大学、助教授(細胞生物学)
1996山梨医科大学分子細胞生物学、教授

2005山梨大学を定年退官
現山梨大学名誉教授 
私立シンプレクサス工房代表
                                                          1995共立女子大学卒業
                                                          学芸員資格取得
                                                          一級建築士
  発足後,工房がどのようなインパクトを与えうるのかは未知数だと思うので
     すが,商品を開発して売ると言ったビジネスではないし,かといって研究所
     としては失礼ですがあまりに手作りぽい感じでこの工房の性格が一般の人には分か
     りずらいですよね.特に生命システム部門に関してどのような考えからこうした工房
     建設に至ったのかから説明を始めていただけますか.
●:   そうですね.確かに新しいバイオビジネスを開始しようとか,最新の研究に
     不可欠なツールを欠いたまま通常の先進バイオ研究所を構想するとか,そういった
     意図は最初からありませんでした.ちょっと一般には興味ない話かもしれませんが,
     我々の意図をご理解してもらう糸口として生命システムという考え方を紹介させて
     下さい.
●:  生命システムですか.経歴では大学での専門は分子細胞生物学となっていますよね.
     これだと大学の授業科目とか教科書にも登場するし,基礎的研究にふさわしい
     ようにも思えるのですが. 
   それはもっともな疑問だと思いますよ.あえてなぜ通りのわるい名称にするのかという
      ことですから.だからこそ,この生命システムの説明が必要になります.ちょうど分子
      細胞生物学の名前が登場したのでこれから話を始めると,この分子というところが
      少し前の生物学ではもっとも重要なキーワードでした.生物の構造や働きを分子の
      言葉から説明しようとするのが分子生物学ですが,中でも分子遺伝学がその中心に
      有ってこれを突破すれば生物学の謎は大部分解決できるのではないかと考えてきた
      わけです.そうした背景の中で今から20年以上前,アメリカでヒトゲノム研究所(1年
      後にはヒトゲノム研究センター:NCHGRに改称されるのですが)が途方も無いプロ
      ジェクトをスタートさせました.ヒトゲノムの全塩基配列を決定しようというヒューマン
      ゲノムプロジェクトです.1989年がNCHGRスタートの年ですが,この計画が成功
      するとは多くの研究者は当初予想していなかった.少なくとも20年程度で全貌が
      明らかになるとは思っても見なかったというのが本当のところでしょう.ところがこれ
      が成功してしまいました.途中いろいろな紆余曲折はありますが,基本的なところが
      発表されたのは何と2001年で,2003年には本当に完了してしまったのです.この
      衝撃をカウントしたことはないのですが,それ以前の生物学とそれ以降の生物学
      では方法論も,また研究評価の考え方も全く異なってしまうということが現実に起こ
      るのは当然のことですよね.これをポストゲノムの時代と言うのですが,それ以前の
      時代と歴史的な意味合いが違うということがこうした表現ににじんでいることが分かり
      ます.
●:   ゲノムプロジェクト完了のインパクトの大きさはなんとなく理解できたような気が
      するのですが,でもゲノムの中身が分かったからといって生物が分かったという
      ことになるんでしょうか.
    
●:   もちろんゲノムで終りだとはだれも考えてはいません.それにちょっと分子生物学の
      講義のようで,拒絶反応を起こされると困るのですが,ゲノムと遺伝子とは意味が
      違っていて,機能分子としてのDNAの働きを考える時はゲノムの一部分である
      遺伝子の方が主役となります.ゲノムプロジェクトや世界中で並行して行われて来た
      解析では,この遺伝子に関する情報も圧倒的に増大してきました.もちろん遺伝子
      についても,いろいろな遺伝子が何時,どのような条件で働き出し,また働きを停止
      し,細胞固有のタンパク質をどの細胞がどれだけつくるのか,その寿命がどれぐらい
      でまたなによりもそのタンパク質が何をしているのかということがことごとく分かった
      ということではもちろんありません.重要な変化と言うのは,キーとなる膨大な情報を
      世界中が自由に活用できる形で人類が手にしたということです.この間の技術革新
      もあって,一時に手に入る情報量も予算さえあれば膨大な量を扱えるようになりま
      した.一時に出力されるデータ量が大きい時,これをハイスループットと言うのです
      が,従来狙い定めた遺伝子やタンパク質の変化を追っていたような方法論から見る
      と信じられないような変化なんですね.したがって,これらの新しい変化の洗礼を受
      けた研究者の中から,情報科学的な手法で得られているあらゆる分子情報を解析
      し,生物学の難問に挑戦しようとしたり,またこの膨大な分子のネットワークを
      システムとして捉えようとする動きが生まれてくるのは必然的な流れといえます. 
●:  それが今回の工房の目的である生命システムの探求につながるということですか.
     分子生物学の拡張というのか,ポストゲノム時代の新しい流れの1つというのか
●:  いや,それなら今メジャーなところで盛んに動いていますから,こんなちっぽけなと
     ころで息巻くことはないのです.今の生命システムの考え方の主流が,まさにポスト
     ゲノムのさまざまな潮流やテクノロジーの革新を背景に発展してきているということを
     強調したので,そうとられてもしかたが無いのですがシステムとして生命を観る動き
     ははるかに古い歴史があるのです.僕自身もポストゲノムの状況からこの流れに
     乗ろうとしたわけではなく,学生時代から何十年もの間くすぶっていた考えが
     ほんの少しだけ形をとって来たということなんです.分子細胞生物学を講義し,また
     その小さい分野で分子生物学ぽい研究をほそぼそと続けてきた僕が,ある意味では
     分子生物学のアンチとも言える古くから主張に今再検討を試みるのは時代錯誤
     と言う方が適切でしょう.  
●:  ますます分からなくなってきました.ちょっとギブアップかな(笑い).それではその
     アンチというのを説明して下さい.
:  分子生物学というのは前に言いましたがその中心に分子遺伝学がありますよね.
      この分子遺伝学の考え方は,形質といった複雑な生物学的特性も遺伝子情報の
      発現に還元できる,究極的要素としての遺伝子からの一連の情報連鎖系として
      説明できるというものです.それは見事に的中し,巨大な成果となって今や
      基礎的な研究の枠を越えて医療や農学,工学の一大領域を形成するように
      なりました.これは生物の特性を見事に解明した典型のように見えるのですが,
      ちょっと一般化すると本当に生物独自の特性なのか,人間が設計し組み立てた
      機械とは全然異なる原理なのかという疑問が出てこないでしょうか.機械と言う
      と時計とか,自動車とかそういったいわば第一世代とも言える古典的な機械を
      思い浮かべることが多いのですが,今の機械は精密な制御された機械的運動
      ができるだけでなく,感覚や情報処理能力を付与された生物のような動きに接近
      してきています.高度のセンサーや,複雑なアルゴリズムを高速でこなせるコン
      ピューターの実装は,不気味なほど生物機能に接近して,僕のような古いタイプ
      の人間は恐怖めいたものを感じる時があります.機械の中の部品は交換可能
      であり,かつ全体とは相対的に切り離して独立に改良可能です.部品の範囲を
      空間的に一個の独立体としなくとも,複数の部分が集まってできた機能単位の
      ようなものを考えても同じです.部品,つまり要素によって組み立てられた全体
      という機械の特性はもちろん自己増殖という生物の特性を備えているわけでは
      ありません.しかし,人間社会がつくりだした工場を含む生産体系を考えれば
      明らかに大量に同じものが製造され,またモデルチェンジ繰り返されて行きます.
      まるで機械が進化して行くように.機械と生命体を厳密に分けるというのは
      思ったほど簡単な事ではないんですね.システムの中での共通原理に基ずく
      交換可能性というのは,ウイルスの場合良く知られていてそれ自身核酸という
      物質であるにもかかわらず,感染のための少数の分子があれば細胞という
      システムの中に潜り込んで生命体の特性である自己増殖を実現に移すことが
      できます.核酸という生体高分子と自動車を一緒くたにするのはいかにも乱暴な
      論理の展開ですが,生命システムの意味を考えるとそれほどの飛躍では無い
      んですね.
●:   ちょっと待って下さい.面白い考えですが,分子生物学が機械のように生物を
     みなして遺伝の一大原理の発見に成功したというのは本当ですか.それなら逆に
     生物も機械ということになるのと違いますか.失敗したならともかく成功したので
     すから.
●:   いや,それは必ずしもそうではない.例えば眼はカメラのような構造を持つから
     と言って,眼がカメラであると決め付けると他の特性は消えてしまうでしょ.
     カメラとしての側面を持つことはあるけれど,生命体を構成する器官としての
     別の重要な特性はいくらでもある.しかし本題から離れることになるのですが,
     確かに現代の医学はヒトの身体を部分に分けて,これを交換可能な部品と
     して扱う方向にあるのも確かですね.臓器移植はそれを前提に成り立っています
     から.再生医学はそれからはちょっとずれていると思いますが,でもどんどん
     本題から遠くなりますから,ちょっと元に戻りましょう.分子生物学や分子
     遺伝学が現象の本質を単純な要素に還元して追及して来たこと,この方法
     に対しては当初から激しい批判が出されていました.これは今となっては歴史
     の中の1エピソードとしての意味しか無いものが多いのですが,例えば細胞は
     生きている全体であり,その中の細胞小器官は細胞外に取り出した時には
     もはや生物としての特徴は失われているといった見解等がその典型例の1つ
     です.僕が学生だった頃,1960年代前半ですが,こういった意見は少数意見
     どころか隠然たる勢力を保っていて,生体外に取り出した生体構成分子全体
     に対する生物学アカデミアの不信感は相当のものだと記憶しています.
●:   でもそれは間違っていたわけですよね.
●:  間違っていたかどうかというより,そのような見解が有効な成果を生み出さなかったと
    いうのが本当のところではないでしょうか.科学としての創造性に結びつかない
    ものはやがて歴史の地平に沈んで行きます.分子生物学は未知の自然に
    対してあらゆる可能な分析的な手段を応用し,論理的な展開で生命体を構成する
    部品としての特性を明らかにして行きました.ミトコンドリアもリボソームも,他の
    細胞内小器官も基本的には細胞から取り出しても機能を保持している,生命
    の全体性,不可分性は実験事実によって粉砕されました.生体構成分子間の
    相互作用ですら試験官内で再現可能で有ると分かった時,もはや全体性を
    よりどころとするシステム論に生き残る余地は無かったといえます.それどころか
    生命機能が化学反応装置として解析可能だと分かった時,要素間の相互作用を
    実験的に解明することは生物学者の手を離れてそれを得意とする化学者や医学者の
    草刈場となりました.生体分子の物性的研究は物理学の格好のターゲットとなり
    ました.生命システムはどうでしょうか.生命の持つ高度な制御機構,構造の多重
    性,安定のための多数の装置,情報処理を柔軟に行う脳等に工学的な関心が
    集中して来るのは当然の流れで,これは加速することは有っても停滞することは
    ないでしょう.この流れがポストゲノムの状況と重なったのが急速に興隆してきた
    最近の生命システム研究ということになります.     
●: とすると本工房の独自性どう考えたらいいのかということになりますよね.古くからの
   生命システム論があまり生産的でなかったとするならどうするのか.いろいろあちら
   こちらえ飛んだので,そろそろ工房の結論を出されてもいいのでは.こちらの方の
   がまんもそろそろ”げんか〜い” という感じです.
●: あっははは・・.気が短いですね.いいですよ.端的にこちらの生命システムへの
   アプローチをまとめてみましょう.要するに研究の戦術・戦略に結びつかない
   ような哲学的認識論では創造性と結びつかないということが歴史の教訓でした.
   僕の考え方,方法論というのはだから極めて簡単で,今までの生物科学系研究の
   到達点から出発するということが前提です.いろいろな分子が集まって形成する
   配置や構造,働きのネットワーク等を無視して新しい観点を獲得することなど
   できるはずがありません.それでは何が新しいのかというと,こうした配置,構造
   を前提とした統合体を,単なる相互関係の網ではなくシステムとしてどうして安定
   なのか,システムの全体性を保持している入力/出力制御のしくみとか,あるいは
   さらに上位のシステムとなぜ衝突しないで下位システムが保持されているのか,
   上位と下位のシステムとはそもそもどのような関係にあるのか,さらにはすすんで
   一個の全体である個体がなぜ自己同一性を保持できるのかなど,要するに
   従来の研究の重点をほんの少しシステムとしての法則性の追求の方に移すという
   ことに過ぎません.
●: 生物学とあまり一生懸命取り組んだことが無いので,さらに分からなくなってしまった
   かな.ただ何となくですが,問題が広すぎて大変だなという感じがします.
●: ちょっと一般的な考え方を強調したので,イメージが湧かないんだとと思いますね.
   僕等の工房で具体的に探求できるのはほんの少しの課題で,大部分は他の人達が
   実際もう研究を開始しているのです.ただそれを生命システムの考えで組みなおせ
   ばもっといろいろな新しい発見が出てくるかもしれない.
   それから大切なことでちょっと言い忘れたのですが,生物の歴史と生命システム
   とのかかわりについてどう考えるかということです.生物の歴史というと種の進化
   のような大きな系統の歴史になるのですが,これは現在の分子生物学を前提に
   にすると,生物の内側から自発的に生まれてくるようなたぐいの機構があるわけでは
   無いんですね.環境と生物の遺伝的特性が組み合わさって,結果的に進化して
   きたように見える,だから進化という多分に価値観が入ったような言葉を使うこと自体
   気がひけるのですが,個体が一個の卵から発生してくる過程というのはシステム
   の進化を自発的に,生物の内部からの法則性にしたがって連続的に展開して行く
   わけで,生命システムとしては驚異的世界だと思います.しかし,系統の歴史の
   ようなマクロの世界でも,ごりごりの因果律しか科学ではないと思っているような
   教条的考えをとりはらうと,システムとしての高度化がしだいに進んできている
   ことは認められます.したがって個体発生のあるステージで見られるシステムの
   メリット,デメリットからマクロの進化を位置づけることは意味あることなんですね.
●: 生命システムという全く新しい研究が始まるのではなくて,今までの研究を生命
   システムと言う観点から捉えなおしてみると面白いのではないかという点は分か
   るような気がします.まだまだ疑問はあるのですが,工房の使命の1つである
   生命システムに関してはこれくらいにして,ここで少し休憩をはさみ,次はアートに
   関する工房の取り組みに移ることにします.
この続きはPart 2としてアート部門で近日公開予定です