一方,生命システムの科学的探求と合わせて,工房の第二の使命としてアートの実践的追求をかかげることに関してはさらに奇異な印象を持たれる方が多いのではないでしょうか.科学とアートは相互に決して翻訳できない異質の人間行為から創造される何かです.アートは手足を持った感覚が自由な想像世界の中で舞うことにより人々にある感情を引き起こします.「かんじんなことは目に見えないんだよ」は星の王子さまに登場するキツネの有名な台詞ですが,心の世界だけでなく科学の世界においても見えない背後の大切なもののため,科学者は合理性を武器に物質世界の暗闇に分け入ろうとします.しかし,アートにとって合理性はむしろ足かせでしかありません.アートは人が生まれ,生き,死んでいくその必然的運命の中で生まれる原始的情熱と結びついています.知と情の両山脈から吹く風の中で,生と死の間に産み落とされた人間は科学やアートという水を飲まずには生きられないと言ったらいいすぎかもしれませんが,科学的なものとアート的なものとは,どちらも無常と向き合う一人一人の人間にとって不可欠な世界と言えないでしょうか.省みますと我々の時代は探求することの喜びからずいぶんと遠ざかってしまいました.それを職業として専門に追求するはずの人々の多くは,功利の柵に取り囲まれて感覚をすり減らしています.
 シンプレクサス工房は探求の使命をかかげてほんのささやかな,そして無謀な第一歩を踏み出そうとしています.これこれの投資に対して我々に何が返って来るのか,どのような成果が期待できるのかを問うことで多くの船が出港に至る前に設計図の段階で,ドックで,また港で挫折して来たことを今我々は考えています.リスクを背負って自らが試みることが科学や芸術の運命とも言えるなら,資金や才能の少なさはこの際最大の問題ではないかもしれません.
 ゲノムプロジェクトで1つの頂点に達した分子生物学;生物機能分子の中心であるタンパク質の持つ基本情報全体を大筋で明らかにしたこの衝撃は生物のイメ-ジを根本から変えてしまいました.生きている生命体の豊かな姿も究極的にはゲノムに還元できるとの分子生物学の確信は生物学の他分野にも君臨する一大原則に成ったかに見えます.しかし,機能操作が可能な工学的道具としてのゲノム情報の歯切れのよさから,生き物の基本的しくみや歴史的由来が解決済みとするのは即断でしょう.ゲノムと現実の生物の誕生がつながるのは生命の場を前提とした生命システムの特性を前提としているからです.人類の知恵や技術はちっぽけな蚊一匹も人工素材から組み立てることは出来ません.それどころか最も単純な原核細胞すら完全合成はおぼろな闇の中に沈んでいます.個体と種の歴史を背負った細胞のプロトタイプの姿がどのようなものかという問に関しても,現状は有効な方法論さえ見出せないでいます.この生命システムと起源という二つの問題意識は,そのまま多細胞生物の誕生にもあてはまりそうです.確かに分子生物学(特に分子遺伝学)の巨大な成果は,暗中模索の奨励ではなく進むべき道が形態形成にかかわる遺伝子の発現制御にあることを示して来ました.近年の研究はツールキット遺伝子という形態形成を制御する一群の転写因子・シグナル遺伝子の概念が,個体の発生だけでなく進化的起源を対象とする系統発生においても十分有効であることを示しています.それにもかかわらず,我々が生命システムという幾分陳腐な概念にこだわる理由はどこにあるのでしょうか.前述したように生命システム,生命体の反応ネットワーク全体という視点から見るなら,遺伝情報は生命存在に必要不可欠なキ-・モジュールであるにしても諸反応連鎖の中に埋め込まれた一つの環ということになります.この視点がどれだけ有効な意味を持つかはこれからの研究しだいですが,たとえば古典的発生生物学が記述してきた胚における大規模な形態形成運動とツールキット遺伝子とのリンクの実態が明らかになるかもしれないし,同じツールキット遺伝子であっても異なる生物システムの中では異なる働きを持つといったツールキット遺伝子機能の可塑性のようなことが起こりうるかもしれません.

            我々が考える使命とは何か

          過去と未来にまたがるシステム科学的なものとアート的なもの